一昨日に先輩がプロデュースしたイベントを手伝ってきた。
無事に公演も終えて会場内のバラシも終わり、後は物を車で運ぶだけ、という状況になった時、僕はその先輩と2人だけになったので色々と話ができた。
他の面々は打ち上げ会場に向かっていたり、解散する等していたからだ。
僕「終わりましたね。どうです?終えてみて率直な感想は?」
先輩「コンテンツは良いものができたと思う。でもマネジメントは全然ダメだったね。」
ふむ。なるほど。
僕はそう思った。
似た感想を僕も抱いていたからだ。
舞台の出来は良かったし、立見がでるんじゃないか?と心配になる程、入りも良かった。
ただ、舞台終了後の風景はあまり感心できるものではなかったのである。
一つだけ言うと、奇しくも昨年のMUSICA FESTAのボランティアをした時と似た思いをしたということだ。
それは『指示系統の煩雑さ』である。
ディレクターは極力“思考→判断→指示”にだけ徹し、実際の作業は人に任せる。
そして指示された人間はその指示に従う、役割をこの2つに分けることだけで驚く程作業のスピードはUPするのだ。
無論指示された人間も“思考→ディレクターに提案”はしても良い。
だが“判断”はあくまでディレクター、プロデューサーが行うべきだ。
そうでなくば際限なく“その場だけディレクター”が増殖し、混乱を起こす。
「個々人がフレキシブルにその場に対応する」という言葉は聞こえはいい。
それがベターな場面も当然あるとは思うが、少なくともイベント運営ではそれは少ないはずである。
言ってみればオーケストラの指揮者に近いかもしれない。
ピアノが勝手にピッチを上げたり、ストリングスが即興を始めたりすることは大きなリスクが伴う。
何かトラブルがあった時も指揮者が瞬間瞬間で判断し、全体に指揮をする。
そしてその成果はディレクター、プロデューサーだけでなく、皆が平等に賞賛の拍手を受ければ良い。
僕はそう考えている。
うぬぬ。。。
長くなってしまった。
でも今回の本題はこれから。
先輩「こないだ、広告関係の人に会ってさ。『“ART STANDARD”だなんて、ずいぶん大胆なネーミングしたね』って言われたんだよ。」
僕「へー、それで?」
先輩「『ARTをSTANDARDにするなんて無理でしょ?』『ARTはSTANDARDにするっていうものじゃないんだから』って。うーん、考えちゃったね〜。」
僕も思わず考えさせられた。
そんでその人達の言い分も良く分かる。
と言うのも、
そもそもARTSは客観できるものではないからだ。
ARTSは良いも悪いも主観で観ることしかできない。
結局はthis arts、the arts等の、主観の集合体でしかないのだ。
“ARTSはあなたの心の中に.....”とでも言うべきか。
ひっくるめて、ARTSとは○○なものだ!!ということは難しい。
少し話が飛ぶが、以前B社の1次面接を受けていた時、ARTSの話になった。
そしてこう聞かれた。
面接官「シミズさんはARTSとDESIGHNの違いは何だと思いますか?」
僕は答えた。
僕「ARTSは目的であると同時に手段です。DESIGHNは目的が別にあり、その手段がDESIGHNです。」
これは僕が2年近くARTSに関わった末に出した、一つの結論だ。
極端な例を出そう。
現在横浜トリエンナーレで話題の川俣正氏の作品の中に、“作品を創る様子を見せる”という作品があった。
ギャラリーにはラインが引いてあって、そのラインより中に観客は入れないようになっているが、通常そのラインの先には作品が佇んでいるはずである。
しかしその作品の場合、ラインの中では作者が作品を創っている真っ最中。
だが、これも“作品を創っている様子を見せる”というARTなのである。
ARTSは基本的に何でもアリなため、(もちろん作家には線引きがあろうが)
似たような作品は他にも数多くある。
恐らく強引にARTSを手段と目的にアーティスト以外が分ければ、
・手段→創作活動
・目的→作品展覧
となるのだろうが、それも上記の例からいってもできない。
僕は“the art”をマスで普及させることは不可能だと思う。
あくまでone to oneな接触しかできないはずである。
それは、人によって人参やピーマン以上に好き嫌いの差が別れるからだ。
だが“ARTS”ならどうだろう?と、ここで思う。
確かに“the arts”をSTANDARDにすることはできない。
でも、それぞれ好きな“the art”を見つけ、近づいてもらうことは不可能なことか?と。
僕は今後one to oneな活動しかやらないと思う。
アーティスト不信シンドロームと診断されている僕ではそんなものだ。
けれど、先輩にはto マスの活動を期待したい。
お手伝いもできる限りやりたい。
まずは、やっかいな病気を治すことから始めなきゃだけど。。。